神幸祭の歴史

聖神社の大祭である神幸祭は寛政七年(1795)の『因幡志』によると「聖大明神は、安永五年(1776)八月、神階正一位を授かり給い、其の明六年六月、初めて夏祭り行はる」とあり安永六年(1777)年に起源とわかる。

また文政十二年(1829)の『鳥府志』に寛政初年(1789)千代川の河原への神幸、および神輿濯の神事は、天明三年(1783)から始まり、翌四年の夏祭りには、氏子講の町々が笠鉾や屋台を繰り出し、子供歌舞伎を披露しながら町中を練り歩き、古海の松原まで挽き出し、その道筋屋台の内より、琴・三味線・胡弓・太鼓の拍子をそろえ、あるいは銅鑼を打ち鳴らし、法螺貝を吹き鳴らして練り歩く様子に多くの見物人が詰めかけ黒山となって街路に立ちふさがり、日夜歌舞音曲がつきることなく、年々派手で豪華となり、一時藩命により祭礼行事が禁止された事、寛政三年(1791)には祭見物に藩主の子らが古海御茶屋に出向いた事など、神幸行列の始まりから興隆の様子が伝えられている。

その後、最盛期の昭和十六年に六十台、戦後の昭和二十二年でさえ二十七台も出たという屋台も昭和二十七年(1952)の鳥取大火によってそのほとんどが消失し、火災を免れた屋台と氏子町内の尽力で再建を果たした屋台を加え、以降十四台の参加が続けられてきた。

老朽化し担ぐ事もできなかった行列の核である神輿であるが、平成十五年(2003)聖神社神輿修復事業奉賛会が組織され敬神会と共に修復事業を行う事となり、同年三月鳥取県無形民俗文化財に指定された事で行政の助力も得て平成十六年(2004)には修復を成し、宇倍神社を始めとする各地の神輿愛好家の皆さんの助力もあり同年の行列復帰を果たすことができた。

同年より諸事情から隔年で開催することになったものの、氏子町内のそれぞれが神社と祭りを支え敬ってきた事を誇りに二百四十年に渡る歴史を今日も伝承している。

平成16年発行、聖神社神幸行列鳥取県無形民俗文化財指定記念誌の掲載記事で聖神社敬神会副会長(当時)巽 新様による「聖神社の沿革」より一部抜粋の上加筆しました。